教えのやさしい解説

大白法 453号
 
三道即三徳(さんどうそくさんとく)
 三道とは、煩悩道(ぼんのうどう)・業道(ごうどう)・苦道(くどう)の三つのことで、生死流転(しょうじるてん)する三界六道の衆生の因果を示しています。
 煩悩道とは、衆生の生命に具(そな)わる欲望や妄心(もうしん)をいい、業道とは、その欲望や妄心より起こる身口意(しんくい)の三業の所作をいいます。そし苦道とは、煩悩や業を因として招いた三界六道の苦果をいいます。
 三道の「道」には「能通(のうつう)」の義があります。「能通」とは能(よ)く通ずるということです。つまり、三道とは、煩悩より業を起こし、業より苦を感じ、苦によりまた煩悩を起こすというように、三つが互いに関連し合って能く通じ合い、苦の生死が断絶することのないさまを示しているのです。
 次に、三徳とは、仏に具わる三種の徳相(とくそう)のことで、法身徳(ほっしんとく)・般若徳(はんにゃとく)・解脱徳(げだつとく)の三つをいいます。
 法身徳とは、法性真如(ほっしょうしんにょ)を身となす仏の身体、般若徳とは、すべてのもののありさまを如実(にょじつ)に知る仏の智慧、解脱徳とは、仏がすべての煩悩の束縛(そくばく)を断ち切り、生死の苦界から脱していることをいいます。
 天台大師は、『摩訶止観(まかしかん)』で、
 「いかんが円の法を聞くや。生死は即ち法身なり、煩悩は即ち般若なり、結業は即ち解脱なりと聞くなり。三の名ありといえどもしかも三の体(たい)なし。これ一体なりといえどもしかも三の名を立つ。この三は即ち一相なり、その実は異(こと)なりあることなし」
と説いているように、法華円教においては、現実に展開する凡夫の三道の姿も、そのままが仏の三徳の妙用(みょうゆう)であると明かしています。三道と三徳は、その名は異なっても、ともに一念三千の妙法であるゆえ、融妙自在(ゆうみょうじざい)であるということです。
 日蓮大聖人は、『始聞仏乗義(しもんぶつじょうぎ)』に、
 「法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。我等衆生無始曠劫(むしこうごう)より已来此の三道を具足し、今法華経に値(あ)ひて三道即三徳となるなり」(平成新編御書 一二〇八)
と仰せられているように、一応(いちおう)天台の義に従い、法華経の功力(くりき)による三道即三徳を説かれています。
 しかしまた、大聖人は『当体義抄(とうたいぎしょう)』に、
 「正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(平成新編御書 六九四)
と説かれているように、末法の衆生は天台の法華経より一重深い、仏法の根本である文底(もんてい)の法華経、すなわち御本尊を正直に信受し、南無妙法蓮華経と唱えることによってのみ、三道即三徳の利益が成ぜられるのです。
 また、『南条殿御返事』に、
 「此の砌(みぎり)に望まん輩(やから)は無始の罪障忽(たちま)ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(平成新編御書 一五六九)
とあるように、現在「此の砌」の地に当たる総本山大石寺に参詣し、本門戒壇の大御本尊の御威光(ごいこう)に浴するならば、過去遠々劫の罪障が直ちに消滅し、三道即三徳と転じて無量の大果報を得ることができるのです。